木下「やっぱりいつも感じるのは、岸先生の建築に対する、自分の作品に向かう姿勢です」
岸「過去の建築家としてどう見られたいかというところからスタートしていたという、不思議なキャリアの始まりです」
未来の視座から振り返って建築をつくる
木下:「PROJECTed Realities」展では、実際に動いているプロジェクトが見られて、且つ出来上がっているプロジェクトも並列で見られるという構成で、一方「京都に還る」には振り返る要素がある。そして、今回は「時間の真実」です。個人的には学生の頃から、常に岸先生の背中を見ながら走っているんですけど、3回生で展覧会を手伝って、院生で手伝って、ちょうど大学に戻ってきて助教のタイミングで展覧会を研究室の学生と一緒に手伝って、それで今回、准教授のタイミングで改めて手伝わせてもらって。やっぱりいつも感じるのは、岸先生の建築に対する、自分の作品に向かう姿勢です。
普通の建築家は、現代をどう捉えるか、どうやって未来をつくるかというのが基本的なスタンスだと思うのです。しかし岸先生は、常に今、建築を作っているのだけれども、未来の視座から振り返って建築をつくっているような、常に未来から振り返りながら現代を見ているような気がするんですよね。だからこそだと思うのですが、今回展覧会の準備をしていて、アーカイブの残し方がすごいんです。過去の資料もすごい取っておられるじゃないですか。事務所を立ち上げて自分でやっていくとなった頃からそういうスタンスだったのか、それとも、もっと前の学生の時代からなのか。他の人の作品の見かたよりも、ご自分の作品の見方というのはどの時点でできたんでしょうか。
岸:それね、いつの取材で言ったのか覚えてないんだけど。大学院が歴史の研究室だったから、時間があれば図書館の書庫に潜って1920年代の雑誌を見ていたんです。その時に発見するわけ、教科書に出ていないような作家を。それで、教科書ではモダンデザインっていうとル・コルビュジエだ、ミース(ファン・デル・ローエ)、(ヴァルター)グロピウスとかなんだけど、当時の雑誌をみると、例えばフランスでいうと(ロベール)マレ=ステヴァンスとかイギリスでいうと(バーソルド)リュベトキンとか(エドウィン)マックスウェル・フライとか、いい建築をつくってる人はいっぱいいてさ、でも歴史のフィルターって残酷で、そういう人たちは消え去って見えないわけ。歴史の教科書に出てくるのは、コルビュジエとグロピウスとミースとみたいな。
大学院の時代に歴史家になるつもりはなかったので、どんな建築家になりたいかっていうのをぼんやり考えた時に、コルビュジエ、ミースになりたいとはのっけから思わなかったけど、その当時完全に忘れ去られていた建築家たち、あるいはアメリカでいうとケース・スタディ・ハウスの建築家たちも大学院当時誰もそんなの気にしない、古臭いと思っていたわけだけれども50年後の建築史研究室の学生が1990年の建築雑誌を見たときに、「この人意外にいいじゃん、今の時代の教科書には出てないけどこの人いいじゃん」と思われるような建築家になりたい。もっと別の言い方をしたこともあって、建築の本の主文の方に入るのではなくて、註の所に入ってくるような建築家になりたい、と。
それはもう大学院の頃から考えていて、今こうやってマルセル・ブロイヤーに座っているけれど、当時僕らが学生のときにはマルセル・ブロイヤーなんてモダニズムはもうだめだと切り捨てられていた。もっと豊かな建築が可能なはずだということで、いわゆるポストモダニズムの時代、それからデコンストラクションの時代に行くわけですけれども、マルセル・ブロイヤーなんて誰も気にしていなかった。でもこの人いいなと思って、椅子だけではなくて建築の資料もせっせと作品集をコピーしていたわけです。それが私の1970年代。90年代入ってからは、ニューヨークに行くたびにブロイヤーの住宅を見て回って、それは本当に偶然なことに、ブロイヤー事務所に友人の日本人がいたりして。いつもいろんなメディアでトップを飾るような建築家ではなくて、「意外にいいんじゃないこの人」っていう人になりたいって学生の時に思ったんですね。建築家としてキャリアをスタートする前から、過去の建築家としてどう見られたいかというところからスタートしていたという、不思議なキャリアの始まりです。
今の我々が50年後にどう見えるのか
それは多分、僕が建築史の研究室出身で、いつもなにやってたかというと1920年代のや1910年代、それからアール・ヌーヴォーは1890年代ですからそうした古い雑誌を見ていたんですよ。それを見ていると、ルネサンス以降は同じだとか思ってきちゃうんです。だから、当時僕が建築史の研究室でやっていた遊びというのが、(レオン・バッティスタ)アルベルティは現代でいうと誰?っていうのをやっていて、アルベルティは今でいうと槇(文彦)さんじゃないとか、パラディオは磯崎さんかなとか、そのルネサンスの建築家今でいうと誰? というゲームをやったりしていた。だから15世紀と20世紀の建築は同質のものだという僕の見方は、大学院の頃からあったんですよ。その頃から、死んだときのことじゃないけど、今の我々が50年後にどう見えるか、どう見られたいかっていうのを考えていたんですよ。
木下:それでいうと、タイムスケールが大きい中で、自分のキャリアを考えながら40年続けられることを考えるっていうのは、なかなか難しいと思うんですけど。そのスパンで考えたときのモチベーションって何ですか?
岸:幸いなことに、90年代に「日本橋の家」が学会賞をいただくわけね。その時に昔の歴史研究室の友人、後輩から、「岸さん、これでもうちゃんと註記に入る人になりましたね」って言われるわけ。50年後の学生が1990年代の歴史書を見たら、必ず学会賞受賞者っていうのが出るわけだから。「もう望みが果たせるようになりましたね」って言われた訳よ。40歳前半でね、もう望みかなったでしょって(笑)。そっから先の仕事もね、「日本橋の家」からどんだけ射程距離の遠いところまで行けるか、あれからどれだけ離れられるか、それだけなんですよ。
さっき、ポートレート写真を「日本橋の家」(模型)の前で撮られて、昔だったら、絶対に嫌だったんですよ(笑)。でも最近大らかになってきて、「まぁいっか」と。もう逃げられないみたいだし、私を呼ぶとき絶対「日本橋〜」の岸さんって言われるわけよ、それがもうずっと嫌で、でも最近はもうしょうがないかって思うようになってきた。今回もあたま(展示の冒頭)を日本橋にしたでしょ、それがもう名残だよね。いま現在進行中のプロジェクトがあるわけだけれども、これでさ、「日本橋の家から離れられたと思うわけ?」って言われると、いや、努力はしてるよ…っていう感じだよね。正直言って。
木下「やっぱりいつも感じるのは、岸先生の建築に対する、自分の作品に向かう姿勢です」
岸「過去の建築家としてどう見られたいかというところからスタートしていたという、不思議なキャリアの始まりです」
未来の視座から振り返って建築をつくる
木下:「PROJECTed Realities」展では、実際に動いているプロジェクトが見られて、且つ出来上がっているプロジェクトも並列で見られるという構成で、一方「京都に還る」には振り返る要素がある。そして、今回は「時間の真実」です。個人的には学生の頃から、常に岸先生の背中を見ながら走っているんですけど、3回生で展覧会を手伝って、院生で手伝って、ちょうど大学に戻ってきて助教のタイミングで展覧会を研究室の学生と一緒に手伝って、それで今回、准教授のタイミングで改めて手伝わせてもらって。やっぱりいつも感じるのは、岸先生の建築に対する、自分の作品に向かう姿勢です。
普通の建築家は、現代をどう捉えるか、どうやって未来をつくるかというのが基本的なスタンスだと思うのです。しかし岸先生は、常に今、建築を作っているのだけれども、未来の視座から振り返って建築をつくっているような、常に未来から振り返りながら現代を見ているような気がするんですよね。だからこそだと思うのですが、今回展覧会の準備をしていて、アーカイブの残し方がすごいんです。過去の資料もすごい取っておられるじゃないですか。事務所を立ち上げて自分でやっていくとなった頃からそういうスタンスだったのか、それとも、もっと前の学生の時代からなのか。他の人の作品の見かたよりも、ご自分の作品の見方というのはどの時点でできたんでしょうか。
岸:それね、いつの取材で言ったのか覚えてないんだけど。大学院が歴史の研究室だったから、時間があれば図書館の書庫に潜って1920年代の雑誌を見ていたんです。その時に発見するわけ、教科書に出ていないような作家を。それで、教科書ではモダンデザインっていうとル・コルビュジエだ、ミース(ファン・デル・ローエ)、(ヴァルター)グロピウスとかなんだけど、当時の雑誌をみると、例えばフランスでいうと(ロベール)マレ=ステヴァンスとかイギリスでいうと(バーソルド)リュベトキンとか(エドウィン)マックスウェル・フライとか、いい建築をつくってる人はいっぱいいてさ、でも歴史のフィルターって残酷で、そういう人たちは消え去って見えないわけ。歴史の教科書に出てくるのは、コルビュジエとグロピウスとミースとみたいな。
大学院の時代に歴史家になるつもりはなかったので、どんな建築家になりたいかっていうのをぼんやり考えた時に、コルビュジエ、ミースになりたいとはのっけから思わなかったけど、その当時完全に忘れ去られていた建築家たち、あるいはアメリカでいうとケース・スタディ・ハウスの建築家たちも大学院当時誰もそんなの気にしない、古臭いと思っていたわけだけれども50年後の建築史研究室の学生が1990年の建築雑誌を見たときに、「この人意外にいいじゃん、今の時代の教科書には出てないけどこの人いいじゃん」と思われるような建築家になりたい。もっと別の言い方をしたこともあって、建築の本の主文の方に入るのではなくて、註の所に入ってくるような建築家になりたい、と。
それはもう大学院の頃から考えていて、今こうやってマルセル・ブロイヤーに座っているけれど、当時僕らが学生のときにはマルセル・ブロイヤーなんてモダニズムはもうだめだと切り捨てられていた。もっと豊かな建築が可能なはずだということで、いわゆるポストモダニズムの時代、それからデコンストラクションの時代に行くわけですけれども、マルセル・ブロイヤーなんて誰も気にしていなかった。でもこの人いいなと思って、椅子だけではなくて建築の資料もせっせと作品集をコピーしていたわけです。それが私の1970年代。90年代入ってからは、ニューヨークに行くたびにブロイヤーの住宅を見て回って、それは本当に偶然なことに、ブロイヤー事務所に友人の日本人がいたりして。いつもいろんなメディアでトップを飾るような建築家ではなくて、「意外にいいんじゃないこの人」っていう人になりたいって学生の時に思ったんですね。建築家としてキャリアをスタートする前から、過去の建築家としてどう見られたいかというところからスタートしていたという、不思議なキャリアの始まりです。
今の我々が50年後にどう見えるのか
それは多分、僕が建築史の研究室出身で、いつもなにやってたかというと1920年代のや1910年代、それからアール・ヌーヴォーは1890年代ですからそうした古い雑誌を見ていたんですよ。それを見ていると、ルネサンス以降は同じだとか思ってきちゃうんです。だから、当時僕が建築史の研究室でやっていた遊びというのが、(レオン・バッティスタ)アルベルティは現代でいうと誰?っていうのをやっていて、アルベルティは今でいうと槇(文彦)さんじゃないとか、パラディオは磯崎さんかなとか、そのルネサンスの建築家今でいうと誰? というゲームをやったりしていた。だから15世紀と20世紀の建築は同質のものだという僕の見方は、大学院の頃からあったんですよ。その頃から、死んだときのことじゃないけど、今の我々が50年後にどう見えるか、どう見られたいかっていうのを考えていたんですよ。
木下:それでいうと、タイムスケールが大きい中で、自分のキャリアを考えながら40年続けられることを考えるっていうのは、なかなか難しいと思うんですけど。そのスパンで考えたときのモチベーションって何ですか?
岸:幸いなことに、90年代に「日本橋の家」が学会賞をいただくわけね。その時に昔の歴史研究室の友人、後輩から、「岸さん、これでもうちゃんと註記に入る人になりましたね」って言われるわけ。50年後の学生が1990年代の歴史書を見たら、必ず学会賞受賞者っていうのが出るわけだから。「もう望みが果たせるようになりましたね」って言われた訳よ。40歳前半でね、もう望みかなったでしょって(笑)。そっから先の仕事もね、「日本橋の家」からどんだけ射程距離の遠いところまで行けるか、あれからどれだけ離れられるか、それだけなんですよ。
さっき、ポートレート写真を「日本橋の家」(模型)の前で撮られて、昔だったら、絶対に嫌だったんですよ(笑)。でも最近大らかになってきて、「まぁいっか」と。もう逃げられないみたいだし、私を呼ぶとき絶対「日本橋〜」の岸さんって言われるわけよ、それがもうずっと嫌で、でも最近はもうしょうがないかって思うようになってきた。今回もあたま(展示の冒頭)を日本橋にしたでしょ、それがもう名残だよね。いま現在進行中のプロジェクトがあるわけだけれども、これでさ、「日本橋の家から離れられたと思うわけ?」って言われると、いや、努力はしてるよ…っていう感じだよね。正直言って。