岸「自分と違うアプローチをしている人に対してはすごく興味があって」
木下「僕の学生が卒業設計で一位になったときもそのまま恩師からもらった言葉を書きました」


デザインをするともう終わり

木下:一方で、建築家の名前忘れちゃいましたけど、誰かに岸先生の仕事を旦那芸って言われたって。

:あー、石山(修武)さんだ。

木下:それを聞いて、当時全く意味が分からなかったんですけど、今日の民主主義の話しでいうと、その当時、そう言われたことを岸先生がどう考えていたのかわからないですけど、少なくとも「日本橋の家」以降徐々に建築家としてのキャリアとネームバリューがでてくると、住宅とかだとどんどん高級になっていって、高級ブランドのショップなんかもできて、ややもするとある種のブルジョワジーの方に行ってしまってもおかしくはないし、普通はそういう人のほうが多いのではないかなと思うのですが。特に、住宅をたくさんやっていると高級な方の住宅にどんどん、でも、そっちに行かないじゃないですか。

:いや行っちゃってるのよ!

木下:そのときはじめて岸先生が、自分がそうやって言われたことに対して、自分のポリシーというか芯と違うところを突かれて、そこが嫌だったんだろうと思いました。

:そうそう。端的にいうとね、デザインしちゃうようになったんですよ。僕の初期の「日本橋の家」の仕事って、建築って、骨と皮なんですよ。もう贅肉がないんですよ。構造体があって、それにサッシと壁なんかがついてて、以上終わり! っていう建築で。そこで何を重要だと思っていたのかというと、幾何学とプロポーションなんですよ。だから、その時僕はちゃんと孤児養育院のことを忘れずにいて、建築は骨組みで、幾何学とプロポーションをきちっと押さえれば、なんとかできるんだという風に思っていたんですね。

そっからどうなっていくかというと、やっぱり、骨とかだけじゃない住宅を求められる場合が出てくるわけです。例えば、お金がもう少しあるとか、あるいは住宅ではなくて商業的な機能の建築、お洒落なファッションブランドなんかの建築もやっているわけですよ。だから、そういうのをやるときは、ある種現代性みたいなものをデザインしちゃうんですよ。僕の言葉でいうデザインをするともう終わりなんですよ。だから、如何にデザインしないでいるかっていうのをやらなきゃいけないんだよなって思ってる。

木下:ちょうどそのときに僕らは大学院生で、岸先生の事務所の名前を借りて実施コンペをやったんです。岸研の一つの大きなプロジェクトで。それをやっているときに、岸先生がふっと来て、「丸でも、三角でもどうでもいいんだよそんなことは!」って言われて。

:今でも言う。それは。

木下:それが、いわゆるデザインをしてしまうことがいかにダメかを言っていたんだなと。その当時はやっぱりわからなかったですけどね。

:最近でもよく言うのは、丸でも三角でも好きな形にすれば、俺どうでもいいから。俺それ興味ないし、っていう言い方になっております。

木下:当時の僕らは、丸でも三角でも形はどっちでもいい!大事なのはコンセプトだという一方で、当時の僕らのコンセプトはプログラム論でしたから。だからもう、何をしたらいいんだって(笑)。当時の同級生たちがいつも言うのは、10年20年やって、そういえば岸先生がそういうこと言っていたなと、アーキテクチャーフォトの後藤(連平)さんたちと岸先生語録が今になったらわかりますという話をするのですが。やっぱり僕らが見ている岸先生の背中自体が、更に逆照射されている背中なので、普通の建築家の背中とはちょっと違うような感じですね。かなりタイムラグがないとわからない。

:特に、講義とか学部学生の実習指導とかだと教師として意識するんだけど、大学院での研究室でのプロジェクトとか、大学院生を相手にすると、僕自身は学生とは思っていなくて、コイツら潰してやると思っていますから。コイツら出てきたら俺の場所がなくなるからコイツらを潰さないとだめだと、ホントにそう思っていますからね。ライバルというのは言い過ぎだけど、本気ですね完全に。だから、還暦のお祝いをこのKIT HOUSEでやったときに、岸語録とかいうパワーポイントを見て、あーそうなんだと思ったのがあって。特に学生の課題とかの講評会で、あーこれいいよね、とかいうらしい。それ学生的にはちゃんと分かっていて、岸先生のいいよねっていうのは、どうでもいいよねっていうことだと(笑)。

確かに、僕がいいよねって褒めるときは、あーはいはいって感じで。最近はね、ホントに良いと思ったものは、「心からいい」と表現するようになって、それは意識的に他の先生が「良い」っていうのと意識的に変えようと思っているところもあって、これをきっかけに変な人生を学生が歩んでいたら面白いなって。他の先生が「ダメ」って言っているやつに限ってサポートしてやろうと思っている。このいう天の邪鬼な性格は昔から変わらない。

「岸和郎:時間の真実 Waro KISHI_TIME WILL TELL」展より
「KIT HOUSE」(2010) 京都工芸繊維大学 学生会館

教育者たろうというつもりがない教育者

いろんな大学が連合して講評会やったり、コンペの審査員とかで呼ばれたりするじゃない。この前も東京の大学院の修了設計の講評をやったんだけど、米田(明)さんに言われたのは、「岸さんって課題でいいのを選びましょうってなったときに絶対に自分のに似たやつって選ばないですよね」って。そうなんですよ。私風のやつやるんだったら、俺のほうがうまいと思っているので。だから、まるで全然違う、全く違うのを選びますね。

僕は一時フランク・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイム(美術館)をあれはいい建築だいい建築だと、これは本当にいい建築だと思って言っているんですけど、僕がビルバオはいい建築だというとなんかこう裏の意図があって言っているんじゃないかと言われたことがあって。あれは、本当に良い建築だと思っているんですけどね。空間的にもね、あるいはビルバオっていう社会を変えたっていう意味でも思うんですけど、なんかそう思われるみたいですね。自分と同じような建築に対してのほうが厳しいですね。

― それは教育者としての目線があるからということですか。

:いや、全然。建築家としてですね。建築家として、こういうのやらせたら俺のほうがうまいと思っている相手に対しては本当に興味ない。でも、自分と違うアプローチをしている人に対してはすごく興味があって、だから今回私の蔵書を図書館に寄贈したんですけど、事務所を閉じる時点で、作品集とかそういう蔵書も将来寄贈しますけど、それを見るとわかりますけれども、え、なんでこんな人の作品集を買うのっていうのが多いと思います。

木下:やっぱり、教育者たろうというつもりがない感じの教育者。

:そうそう。

木下:教育者たろうとしていると、その時点で社会が求めていることに対して、その人達が社会に出ていったときに、役に立つであろうことを教えてあげないといけないなというある種の同時代性を持っているので、一方でそれって射程距離が短いのも知ってる。なので僕らが10年20年経ってから、あーようやくあのとき言っていたことがわかるなというのは、建築家としてのことを言っていたからなんだなと思います。

― 木下先生もそれを体感しているからこそ、ご自身も学生と向き合うときはかなり難しくないですか。

木下:そうそう、そうなんです。よく、僕が学生のときに岸先生にこう言われたぞということを学生に言ったり。学部で、卒業設計で一番になると近代建築の本に学校代表で載るんですよ。で、僕も載ったときに、はじめて公式に岸先生が自分のために文章書いてくださって、でも、基本的に設計案の内容については全く触れていなくて、姿勢だけ触れていて。自分にとっては、人生で最大のイベントでそれがダメだったら終わるぐらいの勢いでやっていることに対して、その姿勢だけを褒めてくれた文章で。ようやくスタート地点に立ったのだというコメントをずっと覚えていて。僕の学生が卒業設計で一位になったときもそのまま恩師からもらった言葉を書きました(笑)

:いやいやいや……

木下:常に僕個人としては、岸和郎という揺るぎない定点があって、そこから距離の置き方、縮め方、あと自分はどのへんにいるかというのがあって。多分それは、建築家が大学で教えることの、建築家であり続けながら大学で教えることの最も大事なことなんだろうなと。今はどうにかそれができるように頑張って続けたいと思っています。

:余談を言うと、僕は意図的に超右翼建築原理主義者なので、その意味では揺るぎようがない右翼なので、立ち位置は変えないし変わらない。それを理解して受け取ってくれているんだと、やってる意味があったなと思う。だから僕にとって嬉しいのは、今回美術工芸資料館が作品を収蔵してくださるというのも、偉そうに聞こえると嫌なんですけど、ある種の原点性みたいなことを私の仕事に見てくださったのかなという気がしますね。

All Photo : Yasushi Ichikawa

 
 
 
 

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岸「自分と違うアプローチをしている人に対してはすごく興味があって」
木下「僕の学生が卒業設計で一位になったときもそのまま恩師からもらった言葉を書きました」


デザインをするともう終わり

木下:一方で、建築家の名前忘れちゃいましたけど、誰かに岸先生の仕事を旦那芸って言われたって。

:あー、石山(修武)さんだ。

木下:それを聞いて、当時全く意味が分からなかったんですけど、今日の民主主義の話しでいうと、その当時、そう言われたことを岸先生がどう考えていたのかわからないですけど、少なくとも「日本橋の家」以降徐々に建築家としてのキャリアとネームバリューがでてくると、住宅とかだとどんどん高級になっていって、高級ブランドのショップなんかもできて、ややもするとある種のブルジョワジーの方に行ってしまってもおかしくはないし、普通はそういう人のほうが多いのではないかなと思うのですが。特に、住宅をたくさんやっていると高級な方の住宅にどんどん、でも、そっちに行かないじゃないですか。

:いや行っちゃってるのよ!

木下:そのときはじめて岸先生が、自分がそうやって言われたことに対して、自分のポリシーというか芯と違うところを突かれて、そこが嫌だったんだろうと思いました。

:そうそう。端的にいうとね、デザインしちゃうようになったんですよ。僕の初期の「日本橋の家」の仕事って、建築って、骨と皮なんですよ。もう贅肉がないんですよ。構造体があって、それにサッシと壁なんかがついてて、以上終わり! っていう建築で。そこで何を重要だと思っていたのかというと、幾何学とプロポーションなんですよ。だから、その時僕はちゃんと孤児養育院のことを忘れずにいて、建築は骨組みで、幾何学とプロポーションをきちっと押さえれば、なんとかできるんだという風に思っていたんですね。

そっからどうなっていくかというと、やっぱり、骨とかだけじゃない住宅を求められる場合が出てくるわけです。例えば、お金がもう少しあるとか、あるいは住宅ではなくて商業的な機能の建築、お洒落なファッションブランドなんかの建築もやっているわけですよ。だから、そういうのをやるときは、ある種現代性みたいなものをデザインしちゃうんですよ。僕の言葉でいうデザインをするともう終わりなんですよ。だから、如何にデザインしないでいるかっていうのをやらなきゃいけないんだよなって思ってる。

木下:ちょうどそのときに僕らは大学院生で、岸先生の事務所の名前を借りて実施コンペをやったんです。岸研の一つの大きなプロジェクトで。それをやっているときに、岸先生がふっと来て、「丸でも、三角でもどうでもいいんだよそんなことは!」って言われて。

:今でも言う。それは。

木下:それが、いわゆるデザインをしてしまうことがいかにダメかを言っていたんだなと。その当時はやっぱりわからなかったですけどね。

:最近でもよく言うのは、丸でも三角でも好きな形にすれば、俺どうでもいいから。俺それ興味ないし、っていう言い方になっております。

木下:当時の僕らは、丸でも三角でも形はどっちでもいい!大事なのはコンセプトだという一方で、当時の僕らのコンセプトはプログラム論でしたから。だからもう、何をしたらいいんだって(笑)。当時の同級生たちがいつも言うのは、10年20年やって、そういえば岸先生がそういうこと言っていたなと、アーキテクチャーフォトの後藤(連平)さんたちと岸先生語録が今になったらわかりますという話をするのですが。やっぱり僕らが見ている岸先生の背中自体が、更に逆照射されている背中なので、普通の建築家の背中とはちょっと違うような感じですね。かなりタイムラグがないとわからない。

:特に、講義とか学部学生の実習指導とかだと教師として意識するんだけど、大学院での研究室でのプロジェクトとか、大学院生を相手にすると、僕自身は学生とは思っていなくて、コイツら潰してやると思っていますから。コイツら出てきたら俺の場所がなくなるからコイツらを潰さないとだめだと、ホントにそう思っていますからね。ライバルというのは言い過ぎだけど、本気ですね完全に。だから、還暦のお祝いをこのKIT HOUSEでやったときに、岸語録とかいうパワーポイントを見て、あーそうなんだと思ったのがあって。特に学生の課題とかの講評会で、あーこれいいよね、とかいうらしい。それ学生的にはちゃんと分かっていて、岸先生のいいよねっていうのは、どうでもいいよねっていうことだと(笑)。

確かに、僕がいいよねって褒めるときは、あーはいはいって感じで。最近はね、ホントに良いと思ったものは、「心からいい」と表現するようになって、それは意識的に他の先生が「良い」っていうのと意識的に変えようと思っているところもあって、これをきっかけに変な人生を学生が歩んでいたら面白いなって。他の先生が「ダメ」って言っているやつに限ってサポートしてやろうと思っている。このいう天の邪鬼な性格は昔から変わらない。

「岸和郎:時間の真実 Waro KISHI_TIME WILL TELL」展より
「KIT HOUSE」(2010) 京都工芸繊維大学 学生会館

教育者たろうというつもりがない教育者

いろんな大学が連合して講評会やったり、コンペの審査員とかで呼ばれたりするじゃない。この前も東京の大学院の修了設計の講評をやったんだけど、米田(明)さんに言われたのは、「岸さんって課題でいいのを選びましょうってなったときに絶対に自分のに似たやつって選ばないですよね」って。そうなんですよ。私風のやつやるんだったら、俺のほうがうまいと思っているので。だから、まるで全然違う、全く違うのを選びますね。

僕は一時フランク・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイム(美術館)をあれはいい建築だいい建築だと、これは本当にいい建築だと思って言っているんですけど、僕がビルバオはいい建築だというとなんかこう裏の意図があって言っているんじゃないかと言われたことがあって。あれは、本当に良い建築だと思っているんですけどね。空間的にもね、あるいはビルバオっていう社会を変えたっていう意味でも思うんですけど、なんかそう思われるみたいですね。自分と同じような建築に対してのほうが厳しいですね。

― それは教育者としての目線があるからということですか。

:いや、全然。建築家としてですね。建築家として、こういうのやらせたら俺のほうがうまいと思っている相手に対しては本当に興味ない。でも、自分と違うアプローチをしている人に対してはすごく興味があって、だから今回私の蔵書を図書館に寄贈したんですけど、事務所を閉じる時点で、作品集とかそういう蔵書も将来寄贈しますけど、それを見るとわかりますけれども、え、なんでこんな人の作品集を買うのっていうのが多いと思います。

木下:やっぱり、教育者たろうというつもりがない感じの教育者。

:そうそう。

木下:教育者たろうとしていると、その時点で社会が求めていることに対して、その人達が社会に出ていったときに、役に立つであろうことを教えてあげないといけないなというある種の同時代性を持っているので、一方でそれって射程距離が短いのも知ってる。なので僕らが10年20年経ってから、あーようやくあのとき言っていたことがわかるなというのは、建築家としてのことを言っていたからなんだなと思います。

― 木下先生もそれを体感しているからこそ、ご自身も学生と向き合うときはかなり難しくないですか。

木下:そうそう、そうなんです。よく、僕が学生のときに岸先生にこう言われたぞということを学生に言ったり。学部で、卒業設計で一番になると近代建築の本に学校代表で載るんですよ。で、僕も載ったときに、はじめて公式に岸先生が自分のために文章書いてくださって、でも、基本的に設計案の内容については全く触れていなくて、姿勢だけ触れていて。自分にとっては、人生で最大のイベントでそれがダメだったら終わるぐらいの勢いでやっていることに対して、その姿勢だけを褒めてくれた文章で。ようやくスタート地点に立ったのだというコメントをずっと覚えていて。僕の学生が卒業設計で一位になったときもそのまま恩師からもらった言葉を書きました(笑)

:いやいやいや……

木下:常に僕個人としては、岸和郎という揺るぎない定点があって、そこから距離の置き方、縮め方、あと自分はどのへんにいるかというのがあって。多分それは、建築家が大学で教えることの、建築家であり続けながら大学で教えることの最も大事なことなんだろうなと。今はどうにかそれができるように頑張って続けたいと思っています。

:余談を言うと、僕は意図的に超右翼建築原理主義者なので、その意味では揺るぎようがない右翼なので、立ち位置は変えないし変わらない。それを理解して受け取ってくれているんだと、やってる意味があったなと思う。だから僕にとって嬉しいのは、今回美術工芸資料館が作品を収蔵してくださるというのも、偉そうに聞こえると嫌なんですけど、ある種の原点性みたいなことを私の仕事に見てくださったのかなという気がしますね。

All Photo : Yasushi Ichikawa

 
 
 
 

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