快晴に恵まれた2017年7月15日(土)、川俣正さん、椿昇さん、日比野克彦さん、藤浩志さん、小林康夫さんをお呼びした国際ラウンド・テーブル「批判力のあるキュレーション——アーティストによるその実践」および、ニカ・ラディッチさんによるナイト・セッション「解釈行為としての創造——アーティストとしてのその実践」を開催しました。

そのうち、国際ラウンド・テーブル「批判力のあるキュレーション」のレポートをお届けします。


左から小林康夫氏、川俣正氏、日比野克彦氏、藤浩氏、椿昇氏

アーティストがキュレーターとしてふるまう機会が増加する昨今。「批判力のあるキュレーション」では、制作と並行してユニークなキュレーションを展開する4名のアーティストが、哲学者を交えて、その実践について語り合いました。

第1部では、モデレーターを務めた本学KYOTO Design Labの三木順子准教授からの質問に答えるかたちで、スピーカーそれぞれの「アーティストにとってキュレーションとはなにか」という視点を明確にしていきました。小林さんによるキュレーターの語義整理を通しながら、さまざまな「キュレーション」の意味、方法、視点が明らかになりました。

第2部は、スピーカーとモデレーターが3人ずつにわかれた2つの鼎談。ひとつめの鼎談「ポストミュージアム時代における美術館の可能性・批判力」では、日比野さん、藤さん、三木准教授が、キュレーションが多様化した時代における美術館が果たす役割について議論しました。日比野さんは岐阜県美術館の現館長、藤さんは十和田市現代美術館の元館長(2016年まで)です。

おふたりによって、保存修復、アーカイブ、コレクション、美術展の企画とさまざまな美術館機能が整理されたうえで、美術について研究する機関としての美術館の役割、可能性について再検討されました。

鼎談中、うしろで聞いておられた川俣さんから「美術館の館長である立場で、自分の作品を扱った美術展をキュレーションする可能性はあるか」という質問も飛び出し、キュレーターとしてのアーティストの実践がもつあらたな可能性が示されていたのではないでしょうか。

「グローバル時代における地域の可能性・批判力」と題されたふたつめの鼎談では、小林さんがモデレーターとして議論を進めながら、川俣さん、椿さんによる地域で展開される芸術祭などについての議論が展開されました。

アーティストとしての活動をはじめられた80年代という時代において、スピーカーのみなさんの出発点の整理が小林さんによっておこなわれ、美術の社会性、公共性についての議論に発展。一般にエンターテイメントと化した美術のなかに批評は存在しているかという問題提起から、サイトスペシフィック・アートにおける地域/その外側という二重の想像力へと話は展開しました。

そうした想像力は、アートは誰が見ているかという観客論へと接続され、批評にいかに抽象度(普遍性)を担保するか、さらにはアートのリアリズム−フィクションの二重性について議論されました。

こうした議論から、全員が登壇する第3部のラウンド・テーブルでは、政治的に制度化されない美術教育、キュレーター教育について議論されました。

椿さんから「仏つくって魂入れない」日本の無自覚なシステムが示され、監視社会のなかでの公共性が問われました。こうした状況における危機感が欠落している現代で、アートはどのように変わっていくのでしょうか。

アーティストの個別性と普遍性との両立が、パブリックな価値基準では回収できない状況のなか、ほかと違うというかすかな差異を敏感に気づく方法、差異をつなぐ人びとの重要性が確認され、これまでのキュレーターが指す意味を越えたキュレーションを考える必要性について議論されました。

今回のプログラムは、今後KYOTO Design Labのプロジェクトとして書籍化予定です。今後の展開にご期待ください。

「解釈行為としての創造」編につづく

批判力のあるキュレーション × 解釈行為としての創造

comming soon…