岸「建築と社会って連動すると思っているから、その歪んだ民主主義の社会が変わらない以上、次善の選択としてモダンデザインが生き残るしかない」


モダンデザインの最後の建築家になりたい

自分がどんな建築家になりたいかっていう話って、90年代にやたら座談会とかでよく出るテーマで、今でも内藤廣が嫌味のように言うんだけど、当然40過ぎの建築家って新しい世界を拓きたいわけ。そのとき僕が何を言っていたかというと、「私は、新しいものを作る気はない。モダニズムっていう19世紀から20世紀を支配してきた世界の建築が、この人の建築で終わったね、っていう最後の建築家になりたい、何かを拓くのではなくて」ということをちょっと言ったことがあって。それから内藤は「モダニズムはお前が閉じるって言ったよな?」って言うわけですよ。まあそん時は生意気だから、「お前、何を〜」なんて(笑)。

ちょっと余談になるけれど、じゃあモダニズムって何かっていうと、僕にとっては近代社会の建築。だから政治でいうと、民主主義。みんなが市民という時代。特にヨーロッパの建築を見てると思うんですけれど、モダニズムデザインの何が重要かってことですけど、20世紀に集合住宅というのが出てきて、90年代のはじめに言われていたのは、モダンデザインの集合住宅は非人間的だと。同じ部屋がズラーッと並んでっていう話があったんですけど、僕が言っていたのは、いや違う、ヨーロッパの社会構造をみたら、肉屋の息子と貴族の息子が同じ部屋に住む、それが当時のウィーンの郊外の集合住宅だったらカール・マルクス・ホーフかな、1キロぐらい続くんですよ。それって夢の姿じゃないか、身分制度にがんじがらめになっていて、肉屋の息子は肉屋になるしかないっていう社会の中でね。みんな同じ家でいいじゃないか、というのは理想の社会像だったんだと思うのです。

それはでも1930年代ぐらいになるとまあ無理だっていうのがわかって、集合住宅のプランもいろいろ変わっていくわけですが。で、何が言いたいかと言うと、90年代の中頃にソ連が崩壊するわけ。それで、共産圏とか東ドイツもなくなるし、要するに、民主主義対共産主義っていう社会構造があったわけだけど、この共産主義っていうのがなくなるわけです。で、さらに資本主義の世界、金持っているやつが偉いっていう変な世界になって。で、近代の平等主義の変形社会がきて、そっからの未来が見えてないじゃないですか。建築と社会って連動すると思っているから、その歪んだ民主主義の社会が変わらない以上、次善の選択としてモダンデザインが生き残るしかないですよね。次のフェーズが来ない、社会が変わらない以上ね。そんな状況、ソ連の崩壊とかを見ながら「俺はモダンデザインの最後の建築家になりたい」って言ったんですよ。なので実は、ソ連の崩壊を見ながら思ったことですね。

― 90年代当時、ポストモダン全盛の中でそのモダニズムに通底していくことは、歴史家としてはとても王道という気がする一方で、実作をつくる建築家としては、やっていくのがなかなか大変なこともあったのではないかなと思うのですが。

:それこそ80年代、90年代ですけど、僕の建築って四角い箱なので、四角い箱を発表するって結構大変だったんですね、もっと派手派手しいへんてこな格好している方が、当然メディア的には載りやすいし。だからって嫌いなことはやりたくないし、そのへんは生理ですよね。だからケース・スタディ・ハウスが知られるようになって、「え、そんな時代が来るの?」って思いましたね。こんなの好きなの俺だけだと思ってたのに、っていうのはあります。だって、本当に僕らが建築を勉強してた1970年代には誰も見向きもしなかったですから。

「岸和郎:時間の真実 Waro KISHI_TIME WILL TELL」展より
ご自身が乗り継いできた車のミニカーコレクションと歴代のノート

最初の動機から「時間」は大きなファクターだった

そういう意味では、当時論文では日本の近代、土浦亀城さんについて書いたんですけど、そういう日本のモダンデザインにもメディアはなんの興味ももたなかったのですが、だんだん変わってきて、だからなんだか常に追いかけられている気がするんですよ。これは誰も興味ないだろうっていう方に自分は踏み出すんだけれども、なんか追いかけて来るんですよね、時代が。

さっきも言ったけど、15世紀と20世紀は大してかわらないと思っているので、現実に、僕が建築設計を生業としたいなって思ったのがフィレンツェの街で(フィリッポ)ブルネレスキが建てた孤児養育院という建築の前に立ったときなんですけど、それはどういうことかっていうと、1980年代はじめにミラノでレンタカーで一週間ぐらいイタリアを走ったんですけど、その時の自分の意識っていうのはお勉強意識で来ているわけですよね。でもフィレンツェ行って、ブルネレスキの建築が好きだったので行って、それを訪ねるわけですよ。で、建築の前に立った。するとね、すごい新しいんですよ。柱とかすっごい細いし、正方形と半円の幾何学だけでエレベーションができてるし。

それで何を思ったのかというと、「あ、これ偽物だ」と。誰かがレプリカを19世紀ぐらいにつくったんだと思ったわけですよ。それぐらい、100年くらい前の建築にしか見えなかったんですよね。一応歴史研出身ですから、19世紀の建築も勉強してるんで。と思って、どこに本物はあるんだろうと近所を探したらなくて、それが本物だった。そうか、建築って、15世紀にできた建築が19世紀に見えるぐらい同時代性を持てるんだと思って、それで建築家になろうと思った。そういう意味では最初の動機から「時間」っていうのは大きなファクターだったみたいだなと、今更ながら思いますね。だから、建築家になる動機も普通はあんまりいないようなアプローチかなと思いますね。逆に言うと社会性が欠けているとよく言われるんですよ。

木下:すごく印象に残っているのは、僕が学生のときに、建築家が社会にコミットできるなんて思うなって言うのです。建築を学ぶ学生が建築の社会性についてだったり、都市とは!? って議論しているのにです(笑)。「え?」っと洗礼を受けて、それをずっと覚えていますね。

:僕らの世代ってやっぱ磯崎さんに作られた時代といっても過言ではなくて、磯崎さんの書いた本を一生懸命読んでいた世代で、書籍だったり雑誌連載されたものを一生懸命にコピーをしたり。そのなかで、磯崎さんがなんかの本で言っていた建築家って、東京が汚い、都市が問題だっていうのはそれは僕たちが悪いからだ、全部を自分たちの原罪のように語るんですね、都市が汚いのも建築家のせいだし、建築のいろんな面をひっくるめて、ぜんぶ自分が悪いっていう言い方をする。それってそういうもんなの本当に、っていうのを磯崎さんが書いていて。

僕の世代も70年安保の頃ですから、社会が変わろうとしていたときなんだけれどもその時でも、都市が汚いのは建築家のせいだとかまあ、そういう意識でみんないるわけですよね。磯崎さんはそれは嘘だというんです。建築家が社会にコミットできるなんて嘘だろうっていうのも僕の感覚に合ってた。でも、もちろん建築が一つのものの力として社会を変えていくのはわかっていますよ。だけれども、それは副次的なものであって、それを第一義に持ってくるっていうのは僕の立ち位置にはなかった。だから、木下君が研究室にいた時代は、いわゆるプログラム論っていうのがあって、そのプログラム論っていうのは僕が一番キライなやつ(笑)。っていう話を難波(和彦)さんにしたらさ、「あなたが言っている話が本当のプログラム論だ」とか言われて、そうでしょうか…っていう。

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岸「建築と社会って連動すると思っているから、その歪んだ民主主義の社会が変わらない以上、次善の選択としてモダンデザインが生き残るしかない」


モダンデザインの最後の建築家になりたい

自分がどんな建築家になりたいかっていう話って、90年代にやたら座談会とかでよく出るテーマで、今でも内藤廣が嫌味のように言うんだけど、当然40過ぎの建築家って新しい世界を拓きたいわけ。そのとき僕が何を言っていたかというと、「私は、新しいものを作る気はない。モダニズムっていう19世紀から20世紀を支配してきた世界の建築が、この人の建築で終わったね、っていう最後の建築家になりたい、何かを拓くのではなくて」ということをちょっと言ったことがあって。それから内藤は「モダニズムはお前が閉じるって言ったよな?」って言うわけですよ。まあそん時は生意気だから、「お前、何を〜」なんて(笑)。

ちょっと余談になるけれど、じゃあモダニズムって何かっていうと、僕にとっては近代社会の建築。だから政治でいうと、民主主義。みんなが市民という時代。特にヨーロッパの建築を見てると思うんですけれど、モダニズムデザインの何が重要かってことですけど、20世紀に集合住宅というのが出てきて、90年代のはじめに言われていたのは、モダンデザインの集合住宅は非人間的だと。同じ部屋がズラーッと並んでっていう話があったんですけど、僕が言っていたのは、いや違う、ヨーロッパの社会構造をみたら、肉屋の息子と貴族の息子が同じ部屋に住む、それが当時のウィーンの郊外の集合住宅だったらカール・マルクス・ホーフかな、1キロぐらい続くんですよ。それって夢の姿じゃないか、身分制度にがんじがらめになっていて、肉屋の息子は肉屋になるしかないっていう社会の中でね。みんな同じ家でいいじゃないか、というのは理想の社会像だったんだと思うのです。

それはでも1930年代ぐらいになるとまあ無理だっていうのがわかって、集合住宅のプランもいろいろ変わっていくわけですが。で、何が言いたいかと言うと、90年代の中頃にソ連が崩壊するわけ。それで、共産圏とか東ドイツもなくなるし、要するに、民主主義対共産主義っていう社会構造があったわけだけど、この共産主義っていうのがなくなるわけです。で、さらに資本主義の世界、金持っているやつが偉いっていう変な世界になって。で、近代の平等主義の変形社会がきて、そっからの未来が見えてないじゃないですか。建築と社会って連動すると思っているから、その歪んだ民主主義の社会が変わらない以上、次善の選択としてモダンデザインが生き残るしかないですよね。次のフェーズが来ない、社会が変わらない以上ね。そんな状況、ソ連の崩壊とかを見ながら「俺はモダンデザインの最後の建築家になりたい」って言ったんですよ。なので実は、ソ連の崩壊を見ながら思ったことですね。

― 90年代当時、ポストモダン全盛の中でそのモダニズムに通底していくことは、歴史家としてはとても王道という気がする一方で、実作をつくる建築家としては、やっていくのがなかなか大変なこともあったのではないかなと思うのですが。

:それこそ80年代、90年代ですけど、僕の建築って四角い箱なので、四角い箱を発表するって結構大変だったんですね、もっと派手派手しいへんてこな格好している方が、当然メディア的には載りやすいし。だからって嫌いなことはやりたくないし、そのへんは生理ですよね。だからケース・スタディ・ハウスが知られるようになって、「え、そんな時代が来るの?」って思いましたね。こんなの好きなの俺だけだと思ってたのに、っていうのはあります。だって、本当に僕らが建築を勉強してた1970年代には誰も見向きもしなかったですから。

「岸和郎:時間の真実 Waro KISHI_TIME WILL TELL」展より
ご自身が乗り継いできた車のミニカーコレクションと歴代のノート

最初の動機から「時間」は大きなファクターだった

そういう意味では、当時論文では日本の近代、土浦亀城さんについて書いたんですけど、そういう日本のモダンデザインにもメディアはなんの興味ももたなかったのですが、だんだん変わってきて、だからなんだか常に追いかけられている気がするんですよ。これは誰も興味ないだろうっていう方に自分は踏み出すんだけれども、なんか追いかけて来るんですよね、時代が。

さっきも言ったけど、15世紀と20世紀は大してかわらないと思っているので、現実に、僕が建築設計を生業としたいなって思ったのがフィレンツェの街で(フィリッポ)ブルネレスキが建てた孤児養育院という建築の前に立ったときなんですけど、それはどういうことかっていうと、1980年代はじめにミラノでレンタカーで一週間ぐらいイタリアを走ったんですけど、その時の自分の意識っていうのはお勉強意識で来ているわけですよね。でもフィレンツェ行って、ブルネレスキの建築が好きだったので行って、それを訪ねるわけですよ。で、建築の前に立った。するとね、すごい新しいんですよ。柱とかすっごい細いし、正方形と半円の幾何学だけでエレベーションができてるし。

それで何を思ったのかというと、「あ、これ偽物だ」と。誰かがレプリカを19世紀ぐらいにつくったんだと思ったわけですよ。それぐらい、100年くらい前の建築にしか見えなかったんですよね。一応歴史研出身ですから、19世紀の建築も勉強してるんで。と思って、どこに本物はあるんだろうと近所を探したらなくて、それが本物だった。そうか、建築って、15世紀にできた建築が19世紀に見えるぐらい同時代性を持てるんだと思って、それで建築家になろうと思った。そういう意味では最初の動機から「時間」っていうのは大きなファクターだったみたいだなと、今更ながら思いますね。だから、建築家になる動機も普通はあんまりいないようなアプローチかなと思いますね。逆に言うと社会性が欠けているとよく言われるんですよ。

木下:すごく印象に残っているのは、僕が学生のときに、建築家が社会にコミットできるなんて思うなって言うのです。建築を学ぶ学生が建築の社会性についてだったり、都市とは!? って議論しているのにです(笑)。「え?」っと洗礼を受けて、それをずっと覚えていますね。

:僕らの世代ってやっぱ磯崎さんに作られた時代といっても過言ではなくて、磯崎さんの書いた本を一生懸命読んでいた世代で、書籍だったり雑誌連載されたものを一生懸命にコピーをしたり。そのなかで、磯崎さんがなんかの本で言っていた建築家って、東京が汚い、都市が問題だっていうのはそれは僕たちが悪いからだ、全部を自分たちの原罪のように語るんですね、都市が汚いのも建築家のせいだし、建築のいろんな面をひっくるめて、ぜんぶ自分が悪いっていう言い方をする。それってそういうもんなの本当に、っていうのを磯崎さんが書いていて。

僕の世代も70年安保の頃ですから、社会が変わろうとしていたときなんだけれどもその時でも、都市が汚いのは建築家のせいだとかまあ、そういう意識でみんないるわけですよね。磯崎さんはそれは嘘だというんです。建築家が社会にコミットできるなんて嘘だろうっていうのも僕の感覚に合ってた。でも、もちろん建築が一つのものの力として社会を変えていくのはわかっていますよ。だけれども、それは副次的なものであって、それを第一義に持ってくるっていうのは僕の立ち位置にはなかった。だから、木下君が研究室にいた時代は、いわゆるプログラム論っていうのがあって、そのプログラム論っていうのは僕が一番キライなやつ(笑)。っていう話を難波(和彦)さんにしたらさ、「あなたが言っている話が本当のプログラム論だ」とか言われて、そうでしょうか…っていう。

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